アルテさんと僕 Episode 1-2
「じゃあ、作ってみればいいじゃない」とアルテさんは言った。
「作るって何をですか?」
「決まってるじゃない。本を、よ」
「自分で本を作れってことですか、そんなの無理ですよ」僕は首を振って言い返す。アルテさんはときどき突拍子もないことを言い出すのだ。たしかに本を書いてみたい気持ちはあるが、だからって自分で本を作るだなんて、ジョークにもならないだろう。
「なぜ?」
アルテさんは心底不思議そうに聞いてきた。
「なぜって、僕、そんなことやったことないですよ」
「で?」
「でって……」
「悪いけど、ちょっと論理のつながりがわからない。やったことがないのはわかる。で、なぜそれが無理になるの?」
「知識も経験も無いんですよ!」僕は少し強めに言い返した。
「知識は覚えればいいし、経験は積めばいい。無理な理由にはならない」
アルテさんは淡々と切り返す。まるで真理の掲示板を読み上げているかのようだ。
「そりゃ、理屈はそうですけど……」
「理屈じゃないとしたら、何が問題なの?」
アルテさんの瞳には好奇心の光が宿っている。本当に興味があるのだ。別に僕をバカにしているわけではない。
僕はネクスト反論ズボックスに積まれていた言説をなぎ払い、自分の心に目を向ける。一つの箱を見つけ、それを開く。そしてその中身をじっくりと観察する。
僕はアルテさんに言った。
「そうですね。たぶん、怖いんだと思います」
「怖い? 本を作ることが?」
「そうではなく、たぶん失敗することが」
ふむ、とアルテさんは沈黙した。僕も押し黙り、もう一度箱の中をのぞき込む。
長さの分からない時間が過ぎていく。
気がつくと、アルテさんは人差し指を伸ばしていた。その指がぐるぐると宙を踊る。何かを指揮しているような、あるいは空中にある見えない透過ディスプレイを操作しているような、そんな動きだ。僕はその動きに吸い込まれていく。
何の前触れもなく、その動きが突然止まる。アルテさんの瞳には、先ほどと同じかそれ以上の輝きが宿っていた。
「恐怖心を理屈で消すことはできない。別のレイヤのことだから。だからその恐怖心を、どこかにやることは不可能」
そう言ってひと呼吸置いてから、ニヤりと笑ってアルテさんは続ける。
「現時点では、ね」
「だったら、いつ消せるんですか」
まるで魔術にかかったように僕は聞き返す。まさにその問いをアルテさんは求めていたのだろう。すぐさま答えが返ってくる。
「いつか、慣れたとき」
その答えに僕は拍子抜けしてしまう。いつか、慣れたとき。そりゃ、慣れたら恐怖心は消えるだろう。でも、それまではどうするのだ。
「最初のうちは誰だって怖い。でも、それでも歩いて行くの。恐怖心は影のように付いてくるし、ときどきに君に何かを語りかけてくるかもしれない。でも、それでも歩いて行くの。必要なのは恐怖心を消すことじゃない。そんなことをしたら、大切な別のものまで消えてしまうわ。手の影に怯えているからといって、手を切り落とせば済む話じゃないでしょ。本当に必要なのは、恐怖心があっても前に一歩踏み出すこと。そういう歩き方に慣れることよ」
そう言いながら、再びアルテさんの人差し指は踊っていた。僕はその指を見つめる。
はたしてそんなことができるだろうか。僕は自分の影を想像する。その影は、夕暮れのそれと同じでひどく大きく誇張されている。実際の僕よりもはるかに大きい。その影が僕を見上げている。あるいは見下ろされているのは僕なのだろうか。
アルテさんは、換気扇を回すように言った。
「もちろん一人では厳しいかもしれない。でも、大丈夫よ。君には私が付いてるじゃない」
屈託なくそう言うアルテさんに、僕は頷き返すことしかできなかった。